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2018年 アニメ 感想+考察まとめ ーー 宇宙よりももっと近くへ。


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2018/12/29 (2018/12/31更新) 2018年アニメ > 2018年 アニメ 感想+考察まとめ ーー 宇宙よりももっと近くへ。」編集/削除共有分類に追加/拍手:1個
今年は本サイトでの活動を控えていたが、2018年も終わるということで、
平成最後の年のアニメを簡潔に振り返ろうと思う。
 
 
 
 
◯ 宇宙よりも遠い場所
本年のアニメを語る上で外すことができない作品といえば、
良い意味でも悪い意味でも、やはり『よりもい』になるだろう。
 
一方で、『よりもい』をめぐる盛り上がりもまた、
『ポプテピ』のそれと同様に瞬間風速的な消費に過ぎなかったという指摘は、確かにあり得て良いと思う。
したがって、2018年を代表する作品に『よりもい』を位置づけることに対し、抵抗感がある人もいるかもしれない。
しかし他方で、『よりもい』をめぐる盛り上がりは、より重要な論点として『君の名は。』に接続されるべきだろう。
つまり『よりもい』は「青春と資本主義の融合」という系譜のひとつの勘所として位置づけられる必要がある。
 
この系譜とは、先日川村元気が『ベイビーアイラブユーだぜ』で以て極端に示したものに等しい。
具体的に言うと、それは、『君の名は。』において川村元気が、アニメのプロモーションビデオ化を通じて、
「青春の暴力」と「資本主義(≒多様性の原理)の論理」をフラットに融合してみせたことに始まっている。
より詳細に言えば、その系譜とは、「青春の美しさ」を利用した「悪いもの」の忘却・排除と、
「資本主義の論理」に基づく自己責任論・自己救済の幻想との接合によって成る。
 
このように『君の名は。』は「青春の暴力」と「資本主義の論理」の接合を志向し、
青春が放つ絢爛な感情を一面的なものとしてみなしながら、それを「力」として極端に用いることで、
これまで平成のアニメが忌避し続けてきた「自己救済」の幻想を屹立させることに成功したのだ。
 
だが、この種の自己救済の幻想とは、
例えば『エヴァンゲリオン』や、他の新海作品がそうであったように、これまでの平成テレビアニメが、
青春が本質的に放つ泥田のような感情を用いることで、むしろ無限遠に投棄し続けてきたものだと言える。
すなわち私たちは、自己救済の不可能性と他者性の志向をこそ、平成アニメの価値観として共有し続けてきたのだ。
 
 
 
そうした文脈のなかで登場した作品が『宇宙よりも遠い場所』なのである。
『宇宙よりも遠い場所』は、「やりがい」を代表とする「青春の美しさ」を無批判のうちに押し出すことで、
「多様性の原理(=資本主義の論理)」が本質的に内含してしまうはずの他者性を「悪いもの」として消失させ、
資本主義の論理を ”純粋化” するとともに、その派生系である自己責任論を暴力的に転倒することで、
自己救済の幻想を奇跡のように打ち立てた平成最後の年のテレビアニメだと言える。
 
もっとも、こうした「青春の力を利用した自己救済の仮構」は、
不完全ながらも、これまでのテレビアニメ作品にも垣間見られることは確かだ。
例えば、2016年に放送された『SHIROBAKO』は顕著にそれである。『SHIROBAKO』は、青年たちによる自己救済と、
アニメによるアニメの自己救済を重ねながら打ち立てられた倒錯的な作品だったと言える。
だが、それでもなお、『SHIROBAKO』における「青春」はあくまでも不完全であった。
なぜならば、少なくとも彼女たちは、自らが放つ青春の力を無批判には信頼しておらず、
その点において、テレビアニメにおける「青春と自己救済の融合」はまだ不完全だったからだ。
この他に、類似の議論は『響け!ユーフォニアム』などの作品を以て展開することは可能だろう。
 
そして、上述の文脈を踏まえて言えば、
『宇宙よりも遠い場所』こそ、はじめて「青春と自己救済」の完全な融合に踏み込んだテレビアニメなのであり、
これゆえに『よりもい』は、平成最後の年である2018年を代表する作品として相応しいと考えられる。
 
 
 
しかしながら、一つの前提として、
自己救済の幻想を打ち立てること自体は、必ずしも批判されるべきことではない。
少なくとも、もはや現代における救済とは、神によって行われるものでは決してなく、
また父によって行われるものでもないのだから、私たちはある程度の範囲で自己救済を求めるより他ない。
実際に世界はそのように変化しつつある。
 
だが他方で、例えば戦後レジームからの脱却や、グローバリズムからのナショナルな脱却などが、
「美しさ」を利用したひとつの特徴的な自己救済の態度で以て論じられていることには留意が必要だろう。
私たちは自己救済を欲しているのと同時に、そのなかでも特に欲望しがちな形態があるということだ。
そして、あえて言えば、本作『よりもい』はその欲望を正確に捉えていたように見受けられる。
よって本作が、国内外を問わず、人々の欲望を集-立(Ge-stell)したのは妥当なのだろう。
 
しかし、それゆえに、後に書くように、今後私たちは、
ひとつに、平成アニメが描き続けてきた「自己救済の順延」は終わらせつつも、
一方で、「青春」や「美しさ」による短絡的な「自己救済の欲望」には抵抗しながら、
他方で、それとは異なる形の「自己救済」を、新たに模索していく必要があるのではないだろうか。
 
以下、本稿では、いくつかの作品における「自己救済」の形態をみていく。
 
 
 
なお、せっかくなので『よりもい』をめぐる海外のレスポンスを紹介しようと思う。
 
まず、この国でもそうであったように、一般的に言って、海外での『よりもい』の評価も割れている。
つまり、放送開始当初と比べて、大きく評価を上げたサイトもあれば、反対に大きく下げたサイトもある。
例えば、ANNでは、同シーズンの作品中7位からスタートしたものの、最終的には最も評価の高い作品に躍り出た。
他方で、MALでは、シーズン当初は9.1point(歴代7位)と極めて高いScoreから始まったものの、
シーズン終了時には8.61point(-0.5point)にまでScoreが落ち、類を見ない下げ幅となった。
同時期に放送された『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(VE)』と比べると、Scoreについては、
『VE』が8.60pointであるため、『よりもい』側が僅か0.01pointながらも上回っているものの、
Popularity(≒視聴者数)については、『よりもい』側がトリプルスコアをつけられてしまっている。
 
もっとも、Popularityをめぐる決定的な敗北は、基本的にはマーケティングの問題にすぎないと言える。
実際に、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が全世界向けに製作・配信させていたのに対して、
『よりもい』は内容を鑑みても、明らかにドメスティックな消費が前提に製作・配信されていた。
例えば海外ユーザーは「日本に住んでいるとオーロラを見ることは特別なことなのかもしれないけれども、
僕の家からはドアを開けるとすぐそこに見えるよ。」というジョークが寄せられている。
 
 
 
とはいえ、本作が描く「自己救済の幻想」は、
いくらかの人々にとって重要な出来事であることは確かだろう。
  
では、本作のように「青春の暴力」と「資本主義の論理」の接合に突き進むのではなく、
仮にそれらから距離を維持したままこの幻想を目指すのであれば、
そこには如何なる可能性が残されているのだろうか。
 
 
 
 
 
 
◯ ひそねとまそたん
 
『よりもい』の他に「自己救済」を仮構する作品は、例えば何があったのだろうか。
端的に分かりやすいのは『ひそねとまそたん』だろう。
 
とはいえ『ひそまそ』は、さすがに『よりもい』ほど短絡的な自己救済は描かない。
一方で本作は、ひそねと小此木という「性関係」を中心とするセカイの救済を延期し続けた代わりに、
他方で、ひそねとまそたんという「鏡像関係」を中心に据えることで、ひそねと国家の救済を同一化し、
それらを救済してみせる。『ひそまそ』において甘粕ひそねは、自らの分身としてのまそたんを、
ひとつの媒介(=鏡)として用いることで救済を遂行するのである。換言すれば、『ひそまそ』のそれは、
同じ欠如を抱えた同質な友人を、鏡(=左右が反転した分身)として用いることで実現が可能になる救済だと言える。
 
しかし、この救済は、先に例に上げたような平成アニメ作品とは大きく異なる方針だろう。
例えば『エヴァ』は、母と息子というその本質を全く異にする二者の融合によってセカイを破滅させるし、
新海の『星を追う子ども』では、森崎先生はアスナを媒介に妻の復活を試みるが、この融合の夢は当然潰える。
 
これらの作品はどれも、体内への取り込みと言った有機的な表象を用いて、自他の境界線を融解させる作品であったが、
一方が、自他の融解をセカイの破滅と結びつけたのに対して、他方は、それを国家の救済と接合するのだから、
その結末は余りにも違うとしか言いようがない。
 
果たして自他の融解は、私たちによる私たちの救済(=自己救済)を可能にするのだろうか。
仮に今言えることがあるとするならば、ひとつに「青春の美しさ」はこの欺瞞を覆い隠すことに成功したが、
どうやら、分身としての有機体との融合という方法では、この幻想を保持することはできなかったということだろう。
 
 
 
さてここで、少し文脈を外して作品について述べると、
樋口真嗣と岡田麿里という組み合わせは、非常に野心的であったように思う。
すなわち、『ひそまそ』においては、全体として物語は男性的な欲望によって支配されていたが、
ところどころ、それらを脱臼させるような岡田麿里らしい性関係の混沌が頭をもたげていた。
 
例えば、Dパイたちがドラゴンに食べられ、吐き出されることで、
それに乗り降りするという設定は岡田によるものだが、これは実に岡田麿里らしいカウンターだと言える。
つまり、平成特撮において無垢な少女とは、自然の代表象としての怪獣と心を通わせる幻想的な存在であったが、
岡田はそれを、怪獣に丸呑みにされた後、ゲロとして吐き出される喪女という形に変奏してしまうのだから、
岡田的だと言うより他はない。
 
また、本作に『ひそねとまそたん』というタイトルを与えた人物も岡田であるが、
融解しゆく「ひそねとまそたん」を、唯一このタイトルだけが「"ひそね" と "まそたん"」として維持し続けていた。
つまりこのタイトルは、人々の救済の欲望に従って融解していく以外に選択肢が与えられなかった「ひそねとまそたん」を、
最後まで異なる二者として維持し続けていた "楔" だったと言える。
 
例えば、本作をめぐっては、もっと抽象的なタイトルや、美しく幻想的なタイトルを付けることも可能であっただろう。
だがしかし、岡田はあえて『ひそねとまそたん』という何の捻りもないダサくてベタベタなタイトルを与えることで、
むしろそれが、鏡を用いた自己救済の物語でもなければ、少女の救済を国家の救済に接続する物語でもなく、
あくまでも "ひそね" と "まそたん" という二人の物語なのだと主張し、
その他者性を保持し続けることに成功しているのだ。
 
 
 
したがって、あえて陳腐さを引き受けながら上述をまとめると、
本作『ひそねとまそたん』では、自己救済に至るべく融解を望む男性的な欲望と、
それを有機的に拒絶する女性作家との対決(=性関係)が、随所で発生していたように見られる。
 
すなわち『ひそまそ』は、オブジェクトレベルでは、自他の融解に基づく自己救済の幻想を描きながらも、
他方でメタレベルでは、製作者間の性関係を維持することで、作品が全体として自己救済の幻想に陥っていくことを、
危うげながらも回避した作品と言えるのではないだろうか。
 
このように、『ひそまそ』をめぐっては、
総監督と脚本家のあいだに非常に理想的な緊張関係を見て取ることが可能であり、
総合メディアとしてのアニメーションという観点では、近年稀にみる成功作だったとも思う。
 
 
 
 
 
 
◯ SSSS.GRIDMAN
 
『SSSS.GRIDMAN』もまた、青春の力に依存しない非-短絡的な「自己救済」を考える上で重要な作品だろう。
 
もっとも、『SSSS.GRIDMAN』について、
如何にあの街がアカネの手によって創造されたものであろうとも、それでもアカネの救済は、
確かに六花らによって行われたのだから、「自己救済」と断ずるには相応しくない、との反論があるかもしれない。
しかし、広く一般に考察されているように、CW(コンピュータ・ワールド)内での六花の姿こそが、
RW(リアル・ワールド)内でのアカネであり、CWのアカネの姿はRWの六花だという説を、本項は採用する。
すなわち、CW六花の姿とはRWアカネであり、たとえCW六花の人格がRW六花の類似物であったとしても、
CW六花によるCWアカネの救済という文脈には、アカネによるアカネの自己救済という文脈が入り込まざるを得ない。
 
なお、これ以外の考察も当然認められてしかるべきだと思う。しかし、この考察は広く一般に理解されているとともに、
私もまた、後述の考察も含めて同様の考察していたため、本項ではこの考察を前提に議論を展開していく。
実際的な問題として、演出を細やかに追うとこれ以外に読みようがないのでは、と個人的には思っているし。
 
いずれにしろ、CWアカネはCW六花に救われると同時に、RWアカネによっても救われている。
よって、これはひとつの自己救済の形を成していると言えよう。あるいは、もっと陳腐な表現をすれば、
あのワンシークエンスは、アカネが自分の弱さを自分で認めて、自分を好きになる過程だったと言うことができる。
そして、やはりこう言えてしまう限りで、『SSSS.GRIDMAN』は自己救済の物語だったと認めざるを得ない。
 
 
 
では、『SSSS.GRIDMAN』のそれは、『よりもい』のそれと同様な自己救済に陥っているのだろうか。
確かに登場人物たちは、みな思春期の少年少女たちであり、彼ら彼女たちの日常は青春と言うに不足しないものであった。
だが、恐らく言わずとも明らかなように、『SSSS.GRIDMAN』のそれと『よりもい』のそれは大きく異なっている。
 
 
差異は大別して2点ある。
 
まずひとつが、あの自己救済が「虚構」であることを、アカネが ”知っている” 点だ。
すなわち、神様であるアカネは、CWの六花の姿がRWの自分の似姿であることを知っており、
それゆえに、神様であるアカネは、その被造物にすぎないCWの六花が為そうとする必死の救済が、
RWの自分によるCWの自分の自己救済という、まるで時の関節が外れてしまったかのような事態に陥っていることを、
嫌というほど ”知ってしまっている” のだ。実際に、アカネはこの事態を知っているからこそ、11話まで彼女は、
かつてフランスの哲学者が近代悲劇の構造として暴いたその事態に陥っていくことを回避するために、
CWの六花(=RWのアカネ)からの説得を唾棄し続けなければならなかったと言える。
 
だがしかし、『SSSS.GRIDMAN』あえてこの自己救済の欲望を諦めなかった。
たとえ、そこで成された自己救済が「茶番」にすぎなかったとしても、あるいはそれが「虚構」にすぎなかったとしても、
そして、それが「茶番」や「虚構」だと ”知っていた” としても、それでもなお、いやあるいは ”知っていた” からこそ、
アカネは、そして『SSSS.GRIDMAN』は、この「被造物による創造主の救済」を引き受けたのである。
 
要するに『SSSS.GRIDMAN』が描く自己救済とは、
自己救済が ”不純” であることを、真に ”知る” ことによって為された救済だと言える。
 
そして、この点で、『SSSS.GRIDMAN』と『よりもい』の自己救済は、決定的に異なっている。
一方で前者の自己救済は、それが「不純」であるということを、アカネが知っていたからこそ成立した救済であった。
他方で後者の自己救済は、むしろそこで成された成長が、極限まで「純粋」であったからこそ成立した救済だと言える。
ゆえに『よりもい』の自己救済は、「青春」という手法を用いて徹底的に「美しく」描かれなければならないし、
その自己救済が「虚構」や「茶番」であることについて、徹底して ”無知” で居続けなければならない。
だからこそ、それを「不純だ」と ”知らせる” ような批判に対しては、
『よりもい』は徹底的に戦わなければならなくなるのである。
 
だが、明らかに私たちは、自己救済の言説が虚構であることを、歴史を通じることで ”知っている”。
また私たちは、恐らくそれが、如何に望もうとも、修正することが不可能な事実であることも ”知っている”。
それゆえに、その事実について ”盲” でありたいと願う欲望が立ち上がることについて、私たちは理解できるはずだ。
 
しかし、自己救済の言説は虚構であり続けるより他ないのだから、
それが虚構であることを ”知らないこと” によって可能になる幻想の構築ではなく、
それが虚構であることを ”知ること” によって可能になる幻想の構築をこそ、
私たちは目指すべきなのではないだろうか。
 
 
 
なお、もう一点は、裕太=グリッドマンの存在である。
すなわち、『よりもい』が徹底して性関係を排除したのに対して、
『SSSS.GRIDMAN』は一定の範囲で性関係を導入した。
 
もっとも、裕太をめぐる問題系は少々複雑で、
アカネの一件と同様に、それを正確に理解するにはある程度の考察が必要となる。
実際には、裕太をめぐる考察はすでに広く一般に成されており、その内容は凡そ纏まっている。
そのため、本項でそれを詳細に述べることはしない。
しかし、例えば裕太にグリッドマンが宿った理由について言えば、
まず裕太とは、アカネが創ったあの街の中で、唯一RWのアカネ(CW六花)を好きになる人間として設定された存在だった。
すなわち、裕太だけが、虚構であるCWのアカネではなく、本物であるRWのアカネを好きになるように定められていたのだ。
また9話にて、夢の中でアカネが裕太と恋人関係を演じたように、RWのアカネにとって、裕太が重要な存在であることは、
明らかだと言って差し支えはないだろう。もちろん、裕太はあくまでもアカネにとってバグ(=失敗作)であり、
誰かCWの自分ではなく、RWの自分をこそ好きになって欲しいという、
アカネの無意識が具現化した登場人物だという考察でも良いと思う。
いずれにしろ、これは1話では語られず、また最後まで語られることはなかったが、
恐らく1話にて、裕太は、CWの六花(=RWのアカネ)に告白したのだろう。
そして、その時にこそ ”グリッドマン” は裕太へと宿ったのである。
アカネの魂を救う特別な名前(=SSSS)として。
 
この点において、『SSSS.GRIDMAN』では、
RWの自分を好きになってほしいという「主体の欲望」と、グリッドマンという「他者」が一体となりながら、
救済という問題系に複雑に関与していると言える。
 
 
 
さて、『SSSS.GRIDMAN』も『よりもい』も、
ともに青春を過ごす青少年たちが、自己救済に至る物語であったが、
その間には大きな違いがあることが明らかとなったのではないだろうか。
 
『SSSS.GRIDMAN』は、宇宙よりももっと遠くて、
それと同時に最も身近な場所である「虚構」こそが、
私たちを退屈から救ってくれる
と描いているのだ。
 
私も原作をリアルタイムで見ていたファンとして、一方では本作と雨宮哲監督には期待しながらも、
他方では、1話から始まった荒唐無稽な展開や、演出面での過度なオマージュには辟易させられていた。
しかしながら、結果的には、原作の正統な続編となっていたことや、上述のように新しい自己救済像を提出した点において、
本作『SSSS.GRIDMAN』は極めて秀逸な作品だと言え、また続編モノとしても見ても大変稀有な出来栄えになっていたと思う。
 
 
 
 
 
 
◯ BEATLESS
 
さて、如何に『よりもい』が2018年において中心的な作品だったと雖も、さすがに度が過ぎるように思われる。
したがって、以下は少々文脈を変えながら本年のアニメを振り返っていこうと思う。
もっとも、ある程度の文脈は維持しながら展開していく。
 
 
「自己救済」を扱った作品と言えば、上述の他にどんな作品があるだろうか。
恐らく作品の内容を単純に評価するのであれば、本作『BEATLESS』こそを特筆すべきだろう。
 
しかし、『BEATLESS』が自己救済の物語なのだという主張は、
即座に理解し難いものではないだろうか。それには一定以上の考察が必要であり、
かつテクスト論的な考察に留まらない間テクスト性を念頭に置いた考察が必要である。
加えて『BEATLESS』をめぐっては『SSSS.GRIDMAN』と異なり、ネット上の集合知も機能していない。
よって、『BEATLESS』においては、具体的な考察をある程度交えながら議論を展開しようと思う。
 
 
 
さて、なにゆえ『BEATLESS』は「自己救済の物語」だと言えるのだろうか。
それを論じるには、まず『BEATLESS』が提出した人間観について述べる必要がある。
具体的に言うと、『BEATLESS』の人間観は、19話にてレイシアによって語られており、
それは人類を「人体と道具と環境の総体」として定義するという人間観であった。
そして、これを採用する限りにおいて、『BEATLESS』は「自己救済の物語」だということが可能になる。
 
 
しかし、全体的な議論を展開する前に、
まず、なにゆえレイシアは人間を「人体と道具と環境の総体」として定義するのかを述べようと思う。
その理由は、『BEATLESS』という作品の内側でのみ悶々と考察するよりも、
『2001年宇宙の旅』との間テクスト性を観ることで明らかになる。
 
なお、『BEATLESS』を考える上で『2001年宇宙の旅』が肝要であることを説明する必要性は、果たしてあるだろうか。
ともにAIの危険性を扱っていることや、レイシアのデバイス名が「ブラックモノリス」であること等から自明に思える。
後者については、例えばDr. Heywood Floydが月面で「モノリス」と対面した際に「Black Monolith…」と呟いている。
 
という具合に、一応『2001年宇宙の旅』を参照する正統性を示した後に、レイシアの人間観について論じると、
この『2001年宇宙の旅』において「モノリス」は、冒頭のシークエンスにて、”サル” と邂逅することで、
サルに ”道具” という概念を与えることとなる。そして、『2001年宇宙の旅』はこのシークエンスを、
「”人類” の夜明け」と名付けているのだ。こうなれば、『2001年宇宙の旅』が人間を如何に定義しているかは、
もはや言うまでもないだろう。これ故に「ブラック・モノリス」の所有者であるレイシアは、
『2001年宇宙の旅』への参照として、人類を「人体と道具と環境の総体」と定義するのである。
 
もっとも、『2001年宇宙の旅』の「人類の夜明け」は、
人類をレイシアのように定義するためのシークエンスというよりも、
人類の進化に地球外知的生命体が関与していることを暗示したものにすぎない。
よって、レイシアによる『2001年宇宙の旅』の参照は、それほど直接的なものではない。
あえて言えば、レイシアによる参照は、『2001年宇宙の旅』の人間観に対する批評的な参照であり、
より踏み込んで言えば、それは『2001年宇宙の旅』が持つ潜在的な可能性に対する二次創作的な参照だと言える。
 
 
いずれにしろ『BEATLESS』の考察に際して、レイシアの人間観を採用する限り、
『BEATLESS』とは、あくまでも ”人類” による ”人類” の救済が志向された物語、
すなわち「自己救済の物語」であったと言う理由は以上の通りであった。
 
 
 
『BEATLESS』の考察に際して、あえて本作を「自己救済の物語」と見做すのは、
作品に対する単純な考察という意味にとどまらない。それは「コンピュータの反乱」という、
『2001年宇宙の旅』を参照することで副次的に発生する主題への応答という意味も含んでいる。
 
すなわち、これはもはや余談になるが、『2001年宇宙の旅』を参照する限りにおいて、
例えば、『BEATLESS』の考察として、レイシアを中心とした陰謀論を企てるのは、
珍論奇論も甚だしいと言わざるを得ないのだ。
 
いや、さすがに奇論は言いすぎかもしれない。
むしろ製作陣は、視聴者が自律的に陰謀論の妄想していくよう、明らかにアナログハックして仕掛けているのだから、
一定以上の視聴者が、本作の視聴に際して、何らかの陰謀論を欲望してしまうのは当然のことだと言える。
しかし後に詳細に論じるように、『BEATLESS』の主題とは、この欲望への抵抗なのだから、
やはり私たちは陰謀論の渦からは可能な限り逃げ去っていくべきなのではないだろうか。
 
 
ひとつに、仮にどうしても陰謀論を企てたいのであれば、
私たちは「ブラック・モノリス」の所有者にすぎないレイシアをその首謀者に見立てるのではなく、
地球外知的生命体である「魁種族」をでもその首謀者として想定する方が正しいだろう。
きっと『BEATLESS』の世界にも魁種族が存在し、「モノリス」を地球に送り込んだのち、
ヒギンズをハッキングすることで、「モノリス」を「ブラック・モノリス」としてレイシアに与え、
これを駆使することによって人類を…などという妄想を繰り広げる方がまだ良いのではないだろうか。
 
もちろん、レイシアではなくヒギンズを魁種族と見立てることは不可能でない。
『2001年宇宙の旅』のそれと比べると、余りにも間抜けで無能な魁種族ではあるが、
それで納得できる人がいるならば、あるいは上述の妄想よりは良いのかもしれない。
 
 
いずれにしろ、『BEATLESS』の考察に際して、『2001年宇宙の旅』を参照しながらも、
「コンピュータの反乱」を描くこと自体が、SF史の参照に失敗していると言われるべきだ。
 
よく知られているように『2001年宇宙の旅』が描いた「コンピュータの反乱」は、
時代的な要因と地理的な要因の影響を大きく受けている。例えば、2001年『A.I』と、
2015年『インターステラー』を参照するだけでも「コンピュータの反乱」の表象史を垣間見ることができるだろう。
何よりも、SF作家のうち「コンピュータの反乱」をめぐる議論について否定的な作家は決して少なくない。
なぜならば、SFが描く未来予想図は、程度の差はあれ、基本的には悉く外れているからだ。
例えば、2018年現在に至るも、未だにアトムは存在していないし、車も空を飛んでいない。
 
また、シンギュラリティをめぐる不安を「コンピュータの反乱」をめぐる議論に投影したい感情や、
その間隙を利用して自身の欲望の投影をしたい感情も理解できる。だが、やはり考察としては、
さすがに『BEATLESS』という作品やその参照先に対して不明でありすぎるのではないだろうか。
たとえ、視聴者たちをそのようにアナログハックするのが、製作者たちの意図であったとしても…。
 
 
 
では、『BEATLESS』は如何なる形態の「自己救済」を描いているのだろうか。
大枠は、先程述べた通り「人体と道具と環境の総体」として定義された人類による人類の救済というものである。
 
あえて繰り返せば、『BEATLESS』は、AIと人類の対決や、AIによる人類の救済・支配を描いた作品ではない。
『BEATLESS』は『2001年宇宙の旅』とH・ベルクソンを批評(=二次創作)的に参照することで、
人類という概念の拡張・再定義をするとともに、その人類の目覚めとして、人類の少年時代の終わりを、
ひとつの「自己救済」の形を以て描いた作品だったのだ。
 
 
 
ならば、人類の少年時代の終わりとはどういうことなのだろうか。
言うまでもなく、これは最終話にて主人公のアラトが語る言葉である。
しかしこの言葉の意味を、直感的に理解するのは容易であっても、
物語全体を踏まえた考察として理解するのは必ずしも容易でない。
 
基本的な情報を共有すると、あの時代における超高度AIは明らかに万能ではない。
端的に言って、超高度AIたちは計算不可能領域に対して無力であり、
例えば、ヒギンズは人間をレベル0と判断するより他なかったし、
レイシアは、それをアラトにアウトソースすることで計算負荷を大幅に削減していた。
 
もちろん、それらは「嘘を吐く道具」たちがついた嘘にすぎないのかもしれない。
しかしながら、人類の少年時代とは、こうした「嘘」に対して疑心暗鬼に成り続ける態度を言うのであり、
もっと素朴な表現をするならば、少年時代の終わりとは、こうした「嘘」に対面してなお、
ある種の「愛」で以てその疑心暗鬼を超克していくことに他ならない。
 
 
 
そして、この「愛」こそがヒギンズの述べる「道具への愛情」なのであり、
人体と道具と環境の総体としての ”人類” に対する新しい「愛」の概念なのである。
 
この「愛」は、性愛としてのエロースでもなければ、
友愛としてのフィリアでもなく、神の愛としてのアガベーでもあり得ない。
それは、人が「道具」に対して抱く新しい形態の「愛」と「信頼」である。
この新しい「愛」と「信頼」が、人体と道具と環境の総体としての人類を支えるのだ。
 
さらに、誤解を恐れず言えば、この「愛」とは、例えば私たちが言うところ「萌え」に近い感情なのではないだろうか。
すなわち、ヒギンズが語り『BEATLESS』が描いた「愛」とは、生命なきキャラクターに対して私たちが抱く愛の感情であり、
この意味において、アラトがレイシアの ”魂” ではなく、その ”形” に拘ったのは、実に正当なことだったように見受けられる。
 
実際に、多くの私たちは、魂などあり得ようはずもないキャラクターたちを深く愛している。
またその愛は、主に彼女たちとの直接的なコミュニケーションによって成されるのではなく、
彼女たちが示すそれらしい記号的パフォーマンスの組み合わせと、ビジュアルによってのみ形成されている。
このような感情は、友愛とは呼べず、また神の愛では決してあり得ない。強いて言えば、性愛たるエロースに最も近いが、
それでも、この「萌え」という感情をエロースと呼ぶのはさすがに避けるべきだろう。
なぜならば、私たちは単純にアナログハックされているに過ぎないのだから。
 
 
 
だが、逆説的に言えば、私たちは自らがアナログハックされていることを ”知っている”。
知っているうえでなお、私たちは虚構であり、人工物であり、道具であるキャラクターを愛してしまうのだ。
換言すると、この「愛」とは、虚実混交によって成立している愛なのではなく、
ある種の倒錯によってこそ成立する愛だと言える。
 
つまり、一方で私たちは、キャラクターがあくまでも虚構であり、
どれだけ彼女を欲しても、それが ”不可能な存在” であることを ”知っている”。
だが他方で私たちは、現実においてもまた、他者を自らの所有物とすることが ”不可能” であることを ”知っている” はずだ。
仮に性愛的なコミュニケーションに至ったとしても、今度私たちは自己という概念を保持し続けることが困難になるだろう。
分かりやすく言ってしまえば、その時私たちの境界は、身体的にも精神的にもグチャグチャになっているのだから、
そうした状態において「”彼女”のことを」とか「”私”のもの」などと、自他の境界を前提にした文章は意味を失う。
このように、私たちの性関係とは、現実においてもまた、ある種の ”不可能性” を本質的に含有してしまっているのだ。
 
だがしかし、この ”不可能性” の共有こそが、
キャラクターを愛するという行為を、つまり「萌え」を支えているのである。
すなわち、私たちは、キャラクターたちが虚構であり ”不可能な存在” だからこそ、
現実の人間との ”不可能性” を愛するように、キャラクターを愛する
ことができるのだ。
 
逆説的に言うと、現実の人間との間で起こる ”不可能性”(=性関係)を愛せない場合は、
恐らくキャラクターを愛することは困難になるだろう。実際に「萌え」という感情を開発し、論じた世代のオタクたちは、
ちょうど今の40代後半〜50代のオタクであるが、彼らの多くが妻帯者であることは周知のとおりである。
「萌え」と3次元への愛情は、決して相反するものではなく、むしろ強いシンパシーを持った概念である。
 
もちろん、こうした「萌え」と「現実の性愛」のシンパシーは、
2000年代中期になって現れた「二次元しか愛せない」人々の登場によって崩れ行く。
だが、こうした種類の人々の登場は、2000年代中期以前には殆ど見受けられないため、
「萌え」をめぐる世代間の議論は、2000年代中期までとそれ以降に分けるに留めるべきだろう。
反対に言うと、「萌え」について ”世代間” の格差を論じるものは多々あるが、
その内実は、”世代内格差” の投影にすぎないものが殆どだと言えよう。
 
 
 
さて、いずれにしろ、
人工知能の登場が現実味を帯び始めたこの時期に、これまで「萌え」という特殊な感情を描いてきた日本アニメが、
「道具を愛する」という感情に新しい名前を与えよう、と問題提起したことは実に興味深い。
 
もはや「萌え」という言葉は余りにも使い古されてしまったし、
また、あくまでも「萌え」は、虚構に対して贈られるべき感情である。
よって、「萌え」は現実と成りつつある人工知能に贈られるべき言葉ではない。
 
しかし、恐らく人類史上最も虚構への愛を描いてきたメディアとして、
この現実に成りつつある虚構へと、愛の言葉を贈らんとする態度は非常に感慨深く、
また正統な振る舞いであるように思われた。
 
 
 
なお、この新しい形態の「愛」と「信頼」は、主として演出によって良く描かれていた。
例えば、『BEATLESS』において印象深く、また視聴者を疑心暗鬼に導いた演出に、
レイシアの虹彩をクロースアップで描いたシーンが挙げられるはずだ。
それは明らかにHALを意識した演出を採っており、
間違いなく私たちを不安にさせる演出だと言える。
Image:(http://livedoor.blogimg.jp/anico_bin/imgs/b/0/b07524d6.jpg)
 
同様の表現はヒギンズをめぐっても存在する。
Image:(http://livedoor.blogimg.jp/anico_bin/imgs/c/5/c5930423.jpg)
 
しかし他方で、最終話のエピローグにて、
レイシアの瞳に変化があったことに気がついた人はどの程度いるだろうか。
具体的には、虹彩がフラットになり、瞳孔部の色彩が明るくなっている。
またハイライトが減って、前述のようなHAL様の演出が行われなくなる。
もちろんhIEのモデルが違うのだから、眼球のデザインが変化していることに何ら不思議はない。
だがそれは、先の演出を意識したならば、あまりに素直すぎる読み方だろう。
Image:(http://livedoor.blogimg.jp/anico_bin/imgs/f/0/f0cf27fd.jpg)
 
エピローグにて、何故レイシアの瞳はHALの眼差しから変化したのだろうか。
それを端的に示すには、最終話にて登場したもうひとつの瞳を見せるのが最も効果的だろう。
これはヒギンズがアラトの手によって外部ネットワークに接続された瞬間のシーンの演出である。
このとき、HAL(=ヒギンズ)の瞳に宿る虚空は、人類への信頼と人類からの信頼によって埋められたのだ。
Image:(http://livedoor.blogimg.jp/anico_bin/imgs/0/5/057a0a01.jpg)
 
ゆえにエピローグにおいて、レイシアの瞳はHALのそれから変化し、
欠如を持った道具と、欠如を持った人体は、総体としての人類となって互いに再会するのである。
 
あるいは、こちらのアプローチでも良い。
最終話にて、アラトはレイシアに対して、仮に心がなくても「その空白に僕らと一緒に手を伸ばしてもいいんだ。
心がなくても信じられるようにきっと僕らは前に進んでる」と、次のような演出とともに語り掛けている。
Image:(http://livedoor.blogimg.jp/anico_bin/imgs/4/3/43e83cda.jpg)
 
こうした会話の後に、エピローグにてレイシアとアラトは再会し、手を取り合うのである。
Image:(http://livedoor.blogimg.jp/anico_bin/imgs/1/8/18ccfee3.jpg)
 
 
 
この意味において、
エピローグで現れたレイシアが、本物なのか偽物なのかを論じることは間違っている。
現にアラトはそれをしない。
なぜならば、彼は人類の少年時代から第一歩を踏み出した人間だからだ。
彼は ”理性の不可能性” に直面したとき、疑心暗鬼に導かれて逃走することをやめた人類なのである。
 
 
また『BEATLESS』を「自己救済の物語」として読むという文脈が、果たしてどの程度維持されていたかは分からない。
しかし、平成の日本アニメと共にあった「萌え」という現象を出発点に、来るべき時代に希望ある提言を行ったという意味で、
『BEATLESS』をこそ、平成最後の年である2018年を真に代表する作品として、私は名をあげたいと思う。
 
人類が新たな一歩を踏み出すときは、きっと宇宙よりももっと遠くにあるだろう。
だが、そのための可能性は、もうすでに、私たちと共にあるのではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
◯ 補遺
 
せっかくなので、これ以外の作品についても簡単にコメントを残そうと思う。
 
 
 
・『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』
国内はどうあれ、海外に目を向けると今期のダークホースとなった『青ブタ』。
現在『青ブタ』は、ANNでもMALでも、今期第一位のScoreを誇っており、その人気の高さが分かる。
私もまた、1話については余りにもアイロニカルな学校描写に辟易させられてしまったが、
気が付けば『青ブタ』こそが今期の楽しみとなっていた。何が面白かったのだろうか。よくわからない。
『物語シリーズ』と『サクラダリセット』を連想させるという海外の評価には私も同意できる。
また『サクラダリセット』が、浅井ケイの魅力に全面的に寄りかかっていたのに対して、
『青ブタ』は、咲太くんに加えて、桜島先輩が実に魅力的であった。
 
ともに海外で高い人気を誇る「青春モノ」だが、
やはり「自己救済」や「性関係」の点で『よりもい』とは一線を画しているため、
あるいは本稿の考察にも加えようかと当初は考えていた。しかし、私自身『青ブタ』については、
まるで魔法をかけられてしまったかのようにハマってしまっただけなので、何が面白いのかよく分からないのだ。
そういうわけで、放送も終了したことだし、海外勢の秀逸な考察に期待したいと思っている。
 
 
 
・『ペンギン・ハイウェイ』
 
今回はテレビアニメに焦点を当てようと考えていたため、劇場アニメについては触れなかった。
だが、今年の劇場アニメで特筆すべき作品といえば、やはり『ペンギン・ハイウェイ』だろう。
青山くんの物語として観た人が多いのだと思うが、個人的には原作からの変更点などを考慮すると、
あれは「お姉さんの物語」として読むのが良いと考えている。詳細は、もしかしたら、いずれ。
 
 
 
なお『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』と『さよあさ』については、すでに充分に論じたためここでは省略する。
 
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